●お知らせ
2022/1 前年の不法投棄を受け、駐車場部に防犯カメラ導入
2021/11 WiFi設備導入・WebPage立ち上げ
既存入居の方でWiFi設備利用希望者は大家(moriji39+wifi@moriji39@gmail.com)まで
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●大家の紹介。
浜松市史にも杉浦家の事は書かれていますが、家に伝わった話とは少し違っていたりします。 昔の事ですので、なんとも言えませんが、記載が違って困る方が勝手に検証してくれるでしょうという ことで、私は家に伝わる話を記載します。 ●沿革 鎌倉幕府御家人和田家を祖先に持ち、 北条の時代となりその地位を追われたのち、追っ手を逃れ杉本と名前を変え、三浦半島の豪族から出たからしばらくして杉浦と名乗り諏訪神社の神主へ転身。浜松までやってきたと聞いております。 その後、諏訪神社の神主の養子と妾の子が諏訪神社の門前に作った宿が、杉浦本陣のもとのようです。 「本陣」これは参勤交代の大名行列を宿泊させるための格を持つ宿泊所であります その後、一時は兄弟にて「杉浦本陣」「杉浦裏本陣」とのれん分けを行ったが 本家側の跡取りが学者となり跡取り不在になったことでふたたび1つにまとまり 杉浦本陣となったと聞き及んでおります。 明治になり、大名制度がなくなり、「平野屋」に改名。 初代・杉浦盛治となります。 戦争の混乱、及び身内の騒動、事業の失敗等があり、 当初は伝馬町区画および磐田市の一部にあった土地も 今では少なくなってしまい、 宿泊施設としての平野屋も廃業となりましたが 現在は、その「別館」および「裏地・土蔵」跡地にてマンション及び裏千家茶道場を行っております。 ●黎明 和田義盛の和田の乱で負け、八男が岡崎辺りに落ち延び、武将というより学者肌で国学を修めて神主となり諏訪神社に来とのこと。時代としては家康より早いのではと言われている。 この辺は浜松の浜松諏訪神社の記載のある本を探したり、浜松中央図書館には内田あさひ氏(?)が研究した浜松の歴史書があると思う。 ●江戸時代の「杉浦本陣」の役割 江戸時代には、「杉浦本陣」「杉浦脇本陣」と兄、弟に分かれて経営し、 参勤交代の大名行列の宿泊所として機能しました。 ちなみに私は隠し事してきれいに終わらせる気はありません。 こういうところで隠し事をするから歴史は美化されておかしいことになるんです。 ですので、書きますが、行列が止まった時には当然「大名様を慰める」売春婦を用意するわけです しかし、そう言う人物に、もし子供ができてしまうことを考えると、適当な人をあてがえないのです。 庶民の子供を産んだなどお家騒動、下手するとお家騒動を理由に取り潰し、等になりかねません (基本幕府は外様はつぶしたい。なぜなら、「恩賞として与える」土地に限りがあるから。) 結果、宿の経営者の嫁さんや娘さんといったところをあてがうんですね。 このクラスの宿には当然、秘匿義務が当時も暗黙の了解でありましたので何かあっても自分の子供だと言い切って育てるわけです。 まぁそんなことも行われていたよって話です。 今が江戸時代じゃなくてよかったね。 ●宿帳を見ると・・・ 貞享年間から元禄と続く期間の宿帳が一冊家に残っています。 面白い話では、これには元禄10年に赤穂浅野内匠守の国家老大野くろべえの息子と討ち入りで有名な神崎弥五郎が江戸下向の折り宿泊した事が記されておりました ●戦争中は将校の宿泊所に。 戦前戦中は軍の将校の定宿宿となっていたようで、軍刀掛がたくさんございました。 三条実美閣下、五稜郭で戦った榎本武揚閣下、お歌所の召し人(宮中に使えた和歌を読む人)など、 戦争の時は戦後A級戦犯とされました土肥原 賢二閣下(陸軍大将)<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E8%82%A5%E5%8E%9F%E8%B3%A2%E4%BA%8C>につきましては「清風名月」の色紙をいただきました たくさんの部品に宿泊いただいておりました。 (極東軍事裁判は、戦争に対するけじめの裁判であり、当時の大日本帝国法を破った刑事者裁判ではございません。 よって、日本国民に対して何ら罪は冒しておりません方々でございます。 日本国民に対して何ら恥じることはないと考えております。 証拠に1952年に主権回復時点5月1日付けで「戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる事となり、戦犯とされた人々のために数度にわたる国会決議もなされた。」とされており、これは日本として戦争上の公務の結果あると解釈したということです。 よって載せます!なお、討議する必要性を見出せませんので、異論は受け付けません。) また、明治時代には天皇陛下が東京に移ったときに、杉浦本陣にてお休みされた(ご休憩された)と聞いております。 ●明治維新と杉浦本陣 明治を迎え、参勤交代が無くなり、氏を国民全員が名乗るようになると、杉浦”本陣”は役目を変えます。 そこで、当時の主人、杉浦盛治は”平野屋”と改名します (これが実はまた、近くの金貸しの名前と類似していたようで、間違えて討ち入られるという騒ぎを呼ぶ。その時の人が、後年、祖父を訪ねてきたことがあったそうです) この盛治から数えて私で五代目だと聞いております ●戦後の動乱とGHQによる土地の取り上げ 戦争に負けたのでしょうがないとはいえど、GHQによる ・財閥解体 ・農地の再分配 ・相続についての法改正 の3点については、完全に民主化、資本主義の促進とは異なる路線で、赤の思想、社会主義の思想であり、資本の集中による愛初力、生産力の増強の能力を著しく低下させる、という意味で確実に負の行いであったと考えます。 国家の力を著しく落とす原因の根源であり、ここは歴史の教育で間違っている部分です 日本には「たわけもの」という言葉があります 一説には「田を分ける」というのはバカのやることである、一族の力を落とす結果になる。 だから、長子相続としていた。 磐田駅の近くの土地に関しても同じです。 私お祖父の叔父(名前は出さないが、内部でおんじいぼうずと呼ばれていた人物。平野屋において”ガン”となる人物。この人物、勝手に陶器記載を変更するなどで、土地の簒奪行為も行っている。)に分家の時渡したらしいのですが、結局、中途半端な土地は扱いもできず直ぐ売ってしまったと聞いています。 資本を集中させていれば、当時の平野屋の資金をもってすれば再開発を行い市民への貢献ができたはずです。 しかし、「たわけ」なことを行ったことにより、平野屋は財産を失うだけ、財産を得た方も、何かを成すのではなく、ただあぶく銭として消費し終わってしまった。 ここはGHQの「民主化」とやらの大きな汚点でしょうね。 ●現在の平野屋・杉浦本陣 戦争の混乱、及び身内の騒動、事業の失敗等があり、 当初は伝馬町区画および袋井市の一部にあった土地も 今では少なくなってしまい、 宿泊施設としての平野屋も廃業となりましたが 現在は、その「別館」および「裏地・土蔵」跡地にてマンション及び裏千家茶道場を行っております。(ご興味ある方は私まで。家元直参できるくらいの先生は紹介しますよ)
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